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小説を読もう「夏美のホタル 森沢明夫」
- 2019/12/06
- 08:19
夏美のホタル 森沢明夫
ヤスばあちゃんを先頭にして、白亜のビルへと歩き出す。自動ドアを抜けるとすぐに、総合病院独特の臭いが鼻をついた。いろいろな薬品と、病に冒された人々の体臭が入り交じったような臭いだ。
ぼくは夏美の細い背中をそっとさすった。すると、それがスイッチになったように、夏美の両目からしずくがぽろぽろとこぼれ出して、地蔵さんにかけられた真っ白いシーツに染みを作った。
プシュゥー、プシュゥー、プシュゥー。
器械の一定のリズムが、白い部屋のなかに満ちていた。
声を押し殺したヤスばあちゃんの嗚咽だけが、唯一、この部屋でぬくもりをはらんだ音だった。、
器械の一定のリズムが、白い部屋のなかに満ちていた。
声を押し殺したヤスばあちゃんの嗚咽だけが、唯一、この部屋でぬくもりをはらんだ音だった。、
居間に取り残された三人は、しばらく言葉を発しなかった。
コチコチ……と杓子定規に時を刻む柱時計の音が、やけに大きく聞こえた。
「お茶、冷めちゃったね。入れ直そっか」
夏美が最初に口を開いてくれた。
コチコチ……と杓子定規に時を刻む柱時計の音が、やけに大きく聞こえた。
「お茶、冷めちゃったね。入れ直そっか」
夏美が最初に口を開いてくれた。
女性も、ヤスばあちゃんも、しばらくは動かなかった。まるで杭にでもなったかのように、ただ向かい合ったまま立ち尽くしていたのだ。
距離を置いたまま無言で見詰め合うふたりの間を、水色のパジャマを着た松葉杖の青年がゆっくりと通り抜けていった。さらに、小太りの看護婦がせかせかと横切っていったとき、女性の表情がすうっと変化した。どこか意を決したように、口を真一文字にひいたのだ。そして、その場所に立ったまま、深々と腰を折ったのだった。
距離を置いたまま無言で見詰め合うふたりの間を、水色のパジャマを着た松葉杖の青年がゆっくりと通り抜けていった。さらに、小太りの看護婦がせかせかと横切っていったとき、女性の表情がすうっと変化した。どこか意を決したように、口を真一文字にひいたのだ。そして、その場所に立ったまま、深々と腰を折ったのだった。
悪い人は誰もいないのに、誰もが傷を負っているー。
それを思うと、自己犠牲によって美也子さんと息子を救おうとした地蔵さんの離婚の決断すらも、必ずしも百点満点だったとは言えないことになるのではないか。いや、そもそも、完璧な正解など無いのかも知れない。人はきっと、その人生におけるすべての分岐点において、少しでも良さそうな選択肢を選び続けていくしかないのだ。そして、それだけが、唯一の誠実な生き方なのではないだろうか。
それを思うと、自己犠牲によって美也子さんと息子を救おうとした地蔵さんの離婚の決断すらも、必ずしも百点満点だったとは言えないことになるのではないか。いや、そもそも、完璧な正解など無いのかも知れない。人はきっと、その人生におけるすべての分岐点において、少しでも良さそうな選択肢を選び続けていくしかないのだ。そして、それだけが、唯一の誠実な生き方なのではないだろうか。
つい半月前まで、鮮やかな紅や黄色で山里を彩っていた山々は、すでに色彩を失っていた。
足元の草花たちも、みな一斉に枯れてしまった。
春から秋にかけてあれほどまでに謳歌していた無数の生命たちも、冬という季節の圧力に負けて、まとめて地中へと押し込まれてしまったようで、ただでさえ淋しかった山里が、いっそう閑散としてしまった気がした。
足元の草花たちも、みな一斉に枯れてしまった。
春から秋にかけてあれほどまでに謳歌していた無数の生命たちも、冬という季節の圧力に負けて、まとめて地中へと押し込まれてしまったようで、ただでさえ淋しかった山里が、いっそう閑散としてしまった気がした。
冬の夕暮れは無慈悲なまでに早かった。
夕方になったかな、と思ったら、力ない太陽はいきなり浮力を失って、ストンと一気に山の端に落ちてしまうのだ。
いま、淡いすみれ色に染まりつつある東の空には、一番星がチリチリと瞬いていた。今日も間もなく、冷たくてしめやかな冬の闇が、この小さな山里をぱくりと飲み込んでしまうのだ。
夕方になったかな、と思ったら、力ない太陽はいきなり浮力を失って、ストンと一気に山の端に落ちてしまうのだ。
いま、淡いすみれ色に染まりつつある東の空には、一番星がチリチリと瞬いていた。今日も間もなく、冷たくてしめやかな冬の闇が、この小さな山里をぱくりと飲み込んでしまうのだ。
砂利の混じった地面を踏みしめると、喪服に身を包んだ夏美が肩をすくめながら、自分の胸を抱くようにした。
「うわ、やっぱ寒いねぇ」
「うわ、やっぱ寒いねぇ」
少しでも風が吹くと、うなじの毛穴がきゅっと縮まりそうなほど山間(やまあい)の空気は冷え込んでいた。
「地蔵さんと雲月さんはどういう仲だったんですか」
雲月はぼくの質問に答えず、空き缶をポイと投げてくずかごに捨てた。そして、喪服の胸ポケットからたばこを取り出すと、慣れた手つきで一本くわえ、百円ライターで火をつけた。紫煙をゆっくりと吸い込み、そして、遠い山の方に向かって吐き出した。
雲月はぼくの質問に答えず、空き缶をポイと投げてくずかごに捨てた。そして、喪服の胸ポケットからたばこを取り出すと、慣れた手つきで一本くわえ、百円ライターで火をつけた。紫煙をゆっくりと吸い込み、そして、遠い山の方に向かって吐き出した。
冬の川風が吹いた。夏と違って、森の匂いのしない風だった。その代わり、とても豊かな腐葉土の匂いがした。
ヤスばあちゃんと公英さんは、離ればなれだった時間の溝を、血の絆によって確実に埋めていくようだった。そして、たった二日間で、「孫とおばあちゃん」という優しい関係を取り戻していったように見えた。
ひょいっと抜き取ったその封筒に、ある有名出版社のロゴが印刷されているのを見た刹那、ぼくの心臓は二拍か三拍くらいスキップしてしまった。
だらしなく緩みそうになる頬の筋肉を緊張させておくのがひと苦労だった。
「お願い?」
雲月は怪訝そうな目をして、ぼくのつま先から頭までを舐めるように見た。
雲月は怪訝そうな目をして、ぼくのつま先から頭までを舐めるように見た。
冬枯れの森のなかから、土の匂いのする冷たい風が吹いてきた。
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