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二〇一四年(平成二十六年)、四月
華僑の大物ともなると、その葬儀はここまで大袈裟になるのか……。
佐々木充は、そんな感想を持ちながら記帳を済ませた。
今年は、四月に入ってから雨空の日が続いている。この日も、横浜郊外にある斎場にはしとしとと雨が降り注いでいた。
通夜には数千人を数える参列者が押しかけている。供花の名札を見ると、ほぼ半数が中国人や中華レストランからのものだったが、政治家からスポーツ選手、芸能人に至るまで、佐々木の記憶にある名前もずらりと並んでいた。
「この中だと、きっと俺が一番新参者だな」
佐々木と故人の周蔡宜(しゅうさいぎ)との付き合いは、亡くなるまでのほぼ一か月しかなかった。しかも、顔を合わせたのはたった一度きりだった。
しかし、そんな周との出会い、そしてこの葬儀が佐々木の人生のターニングポイントになろうとは、いまの時点で予想できるはずもなかった。
佐々木は、ここのところ一年に何度も葬儀に参列している。そういう意味では、数珠や喪服は頻繁に使う仕事上の必須アイテムになっていた。しかし、決して故人の冥福を祈りに、ここを訪れていたわけではない。
その本来の目的のために、佐々木は自分の焼香を終えても、会場の一番後ろの方で通夜が終わるのをじっと待ち続けた。
焼香は六人ずつで行われていた。それでも祭壇の前には長い行列ができている。焼香を済ませた参列者にいちいちお辞儀をする、周の親族は三十名余りいる。みんな華僑なのだろう。中には九十を過ぎていると思われる老人も数名いた。
あまりに退屈なので、佐々木はいつもの暇潰しを始めた。
周の親族の中から、ランダムに人を選び出す。
まずは沈痛な面持ちの七十歳くらいの大柄な女性を選んでみた。ブランド物だろう高価な喪服に身を包み、目鼻立ちのしっかりした顔に濃い化粧を施した女性。体型は気持ちふくよかだった。
「あの婆さんは、ずっと味が濃くて油の多い食事をしていたな。それほど美食家でもない。酒の宛てになりさえすれば何でもいい、そんな感じだ。
前菜にはピータンとか油淋鶏(ユーリンチー)、中盤にトンポーロウでも出しておけば間違いない。スープは塩分きつめ。締めの炒飯も具だくさんにしなきゃならないな」
続いては、いかにも大陸育ちといった顔立ちで、色黒で丸眼鏡をかけた小柄で痩せ型の男性。年齢はもう九十近いと思われる。
「あの爺さんは、生まれは中国の北の方か? 野菜を好む薄味派だな。いや、そもそも料理人かもしれない。腕に筋肉の名残がある。
もしプロでなくても味にはうるさいな。餃子の皮の厚さひとつにもケチをつけてきそうだ。もちろん、スープに化学調味料は禁物だな」
こんな風に佐々木は、老い先短そうな老人を見かけると、その人物がこれまでどんなものを食べてきたのか、食の好みはどんな感じなのか、それを想像する。これは職業病のようなものだが、こんな通夜の暇な待ち時間を潰すには有難いくせだった。
田中経一さんのラストレシピの書き出し
- 2022/04/10
- 20:36
田中経一さんのラストレシピより

二〇一四年(平成二十六年)、四月
華僑の大物ともなると、その葬儀はここまで大袈裟になるのか……。
佐々木充は、そんな感想を持ちながら記帳を済ませた。
今年は、四月に入ってから雨空の日が続いている。この日も、横浜郊外にある斎場にはしとしとと雨が降り注いでいた。
通夜には数千人を数える参列者が押しかけている。供花の名札を見ると、ほぼ半数が中国人や中華レストランからのものだったが、政治家からスポーツ選手、芸能人に至るまで、佐々木の記憶にある名前もずらりと並んでいた。
「この中だと、きっと俺が一番新参者だな」
佐々木と故人の周蔡宜(しゅうさいぎ)との付き合いは、亡くなるまでのほぼ一か月しかなかった。しかも、顔を合わせたのはたった一度きりだった。
しかし、そんな周との出会い、そしてこの葬儀が佐々木の人生のターニングポイントになろうとは、いまの時点で予想できるはずもなかった。
佐々木は、ここのところ一年に何度も葬儀に参列している。そういう意味では、数珠や喪服は頻繁に使う仕事上の必須アイテムになっていた。しかし、決して故人の冥福を祈りに、ここを訪れていたわけではない。
その本来の目的のために、佐々木は自分の焼香を終えても、会場の一番後ろの方で通夜が終わるのをじっと待ち続けた。
焼香は六人ずつで行われていた。それでも祭壇の前には長い行列ができている。焼香を済ませた参列者にいちいちお辞儀をする、周の親族は三十名余りいる。みんな華僑なのだろう。中には九十を過ぎていると思われる老人も数名いた。
あまりに退屈なので、佐々木はいつもの暇潰しを始めた。
周の親族の中から、ランダムに人を選び出す。
まずは沈痛な面持ちの七十歳くらいの大柄な女性を選んでみた。ブランド物だろう高価な喪服に身を包み、目鼻立ちのしっかりした顔に濃い化粧を施した女性。体型は気持ちふくよかだった。
「あの婆さんは、ずっと味が濃くて油の多い食事をしていたな。それほど美食家でもない。酒の宛てになりさえすれば何でもいい、そんな感じだ。
前菜にはピータンとか油淋鶏(ユーリンチー)、中盤にトンポーロウでも出しておけば間違いない。スープは塩分きつめ。締めの炒飯も具だくさんにしなきゃならないな」
続いては、いかにも大陸育ちといった顔立ちで、色黒で丸眼鏡をかけた小柄で痩せ型の男性。年齢はもう九十近いと思われる。
「あの爺さんは、生まれは中国の北の方か? 野菜を好む薄味派だな。いや、そもそも料理人かもしれない。腕に筋肉の名残がある。
もしプロでなくても味にはうるさいな。餃子の皮の厚さひとつにもケチをつけてきそうだ。もちろん、スープに化学調味料は禁物だな」
こんな風に佐々木は、老い先短そうな老人を見かけると、その人物がこれまでどんなものを食べてきたのか、食の好みはどんな感じなのか、それを想像する。これは職業病のようなものだが、こんな通夜の暇な待ち時間を潰すには有難いくせだった。
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