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大好きな小説
おすすめ度 ★★★★
コト……。
工房の時代めいた薪ストーブが幽(かす)かな音をたてた。
重なりあって燃えていた薪が崩れたようだ。
ストーブの前で丸くなっていた黒猫の夜叉(やしゃ)が、目と閉じたまま耳だけをピクリと動かした。
深閑として冷え込んだ、山奥の春の夜である。

「夏美のホタル 森沢明夫」おすすめ小説を読もう
- 2019/08/10
- 07:39
大好きな小説
夏美のホタル 森沢明夫
おすすめ度 ★★★★
保育士の夏美は大学生の彼氏とドライブ中に山奥にある「たけ屋」という店に立ち寄る。
「たけ屋」は老いた親子が営む小さなお店ですが、夏美と大学生の彼氏は夏休みに、ここで過ごすことになる。
そこで、夏美は山奥の自然を満喫し、そして「たけ屋」の老いた親子の愛情や優しさにふれる。
それからも夏美は「たけ屋」の親子とかけがえのない関係を築いていくが、ある時、悲しい事件が起こってしまう。
「たけ屋」は老いた親子が営む小さなお店ですが、夏美と大学生の彼氏は夏休みに、ここで過ごすことになる。
そこで、夏美は山奥の自然を満喫し、そして「たけ屋」の老いた親子の愛情や優しさにふれる。
それからも夏美は「たけ屋」の親子とかけがえのない関係を築いていくが、ある時、悲しい事件が起こってしまう。
森沢明夫さんの作品は登場人物が優しくて癒されますし、表現が美しいので気持ちが清々しくなります。
書き出し
コト……。
工房の時代めいた薪ストーブが幽(かす)かな音をたてた。
重なりあって燃えていた薪が崩れたようだ。
ストーブの前で丸くなっていた黒猫の夜叉(やしゃ)が、目と閉じたまま耳だけをピクリと動かした。
深閑として冷え込んだ、山奥の春の夜である。
雲月は木屑だらけの床の上にごろんと仰向けに寝転がった。手脚をいっぱいに投げ出した大の字だ。白髪がちらほら混じり、少しウェーブのかかったぼさぼさの長髪が、バサリと床に広がった。
傍らの床から湯呑み茶碗を拾い上げて、半分ほど残っていた茶をごくごくと飲み干す。
すっかり冷め切っていて、香りもない安物の茶ではあったが、渇いた喉を滑り落ちる液体の感触は心地よかった。
雲月は「ふぅ」とひとつ息を吐くと、白いものの混じった短いあごひげをじょりじょりと音を立ててなでた。なでながら、目の前の作品をうっとりと眺めた。
すっかり冷め切っていて、香りもない安物の茶ではあったが、渇いた喉を滑り落ちる液体の感触は心地よかった。
雲月は「ふぅ」とひとつ息を吐くと、白いものの混じった短いあごひげをじょりじょりと音を立ててなでた。なでながら、目の前の作品をうっとりと眺めた。
工房の窓の外が、光の粒子をたっぷりはらんだ淡いすみれ色へと変わった頃、どこか遠くの梢から小鳥たちのさえずりが聞こえてきた。気づかぬ間に、夜が明けていたのだ。
いつの間にか、窓の外の朝日が透明な檸檬色にかわっていた。そしてその新鮮な低い光が工房のなかへと差し込んで、菩薩を燦爛(さんらん)と照らし出した。菩薩の背後の壁にまで朝日はあふれ、神々しいような光が広がった。
「くくく……。後光が、射しやがったぜー」
「くくく……。後光が、射しやがったぜー」
この日の気候はとことんのどやかだった。空はよく晴れていたし、季節もちょうど春と初夏のどっちつかずのいい具合で、バイクに乗っていても暑くなく、寒くもない。そして、空気はどこまでも清爽で甘く、山々はきらきらした新緑で彩られ、風がまるくて心地よいのだ。
森の樹々のシルエットの上に、クリーム色の半月が浮かんでいて、夜空全体には数えきれないほどの星たちが瞬いていた。
「まさか、この家から、ただ飯をタカろうってんじゃねえだろうな。あぁ?」
最後の「あぁ?」のところで、男は真っ正面からこちらをギロリと見据えた。冷たい五寸釘のような視線に射貫かれて、ぼくの喉はきゅうっと締め付けられた。
最後の「あぁ?」のところで、男は真っ正面からこちらをギロリと見据えた。冷たい五寸釘のような視線に射貫かれて、ぼくの喉はきゅうっと締め付けられた。
「あんな酔っぱらいのせいで、貴重な夏休みを台無しにされてたまるかよ」
内側の苛立ちを丸めて吐き捨てるように言った。
内側の苛立ちを丸めて吐き捨てるように言った。
今日も朝から真夏の太陽が沸騰した。
気温は打ち上げ花火のようにビューンと一気に上昇していき、午後になると、もはやアスファルトを溶かしそうな勢いだった。
気温は打ち上げ花火のようにビューンと一気に上昇していき、午後になると、もはやアスファルトを溶かしそうな勢いだった。
そこから目と鼻の先にある神社では蝉が大発生していた。ミンミンゼミの鳴き声が幾重にも重なり合い、底抜けに明るくて能天気な不協和音を町中に響かせているのだ。
学食で受賞した写真雑誌のページを自慢げに見せびらかす友人たちを妬み、そして妬んだ気持ちの量だけ、自分の内側に汚れたフィルターがかかっていくのを感じていた。
「写真家になる」という夢も、いつの間にか蜃気楼みたいに遠く霞んでいて、どんなに手を伸ばしても触れられない、ただの迷妄に思えてくる始末だった。
遥か東の空には筋肉ムキムキな入道雲が湧き立ち、コバルトブルーの夏空の真ん中を、白い飛行機雲がスパッと切り裂いていたのだ。
夏の渓谷を渡る川風は、清々しくて、豊かな森の匂いがした。
釣り銭を渡そうとしたら、男は蝿でも追い払うように手を振って「レジに入れとけ」と言った。
「え、で、でも……」
「入れとけ」
ざらっとした声に、凄みが加わった。
「え、で、でも……」
「入れとけ」
ざらっとした声に、凄みが加わった。
ぼくは小さくなっていくその後ろ姿をレジから見詰めたまま、「ふぅ」と息を吐いた。
思いがけず、それは軽やかなため息だった。
思いがけず、それは軽やかなため息だった。
胸の奥に沈殿していた澱(おり)のようなものが、少しずつ昇華されていく気がした。
窓から忍び込んでくる風は、ぼくらの産毛をさらりとなでていった。幽かに秋の匂いをはらんだ切ない感触の風だった。
ふいに座にぽっかりと沈黙の穴があいた。
手にしていたぐい呑みを、コト、と卓袱台の上に置いて、まだ半分くらい残っていた生酒を見詰めた。直径五センチほどのその円い水面は、蛍光灯の白い光を映してひらひらと揺れていた。
軒下の風鈴が、凛、と鳴る。
その切なすぎる音色は、ぼくの胸にタトゥーのように刻まれて、生涯忘れられないものになった気がした。
その切なすぎる音色は、ぼくの胸にタトゥーのように刻まれて、生涯忘れられないものになった気がした。
店先で売れ残っていた最後の「こども花火セット」を、通りすがりの都会のカップルが買っていった。
この店から、夏の匂いが消えた。
この店から、夏の匂いが消えた。
「月が目の錯覚で大きく見えるってことを教えてくれたときにさー」
「うん……」
「地蔵さん、すごくいいことを言ってくれたんだよ」
「えっ、地蔵さん、なんて?」
「人間ってのは、何かと何かを比べたときに、いつも錯覚を起こすんだって。だから、自分と他人をあまり比べない方がいいって」
夏美は前を向いたまま、静かに月を見詰めていた。
ぼくは勝手にしゃべり続けた。
「他人と比べちゃうとさ、自分に足りないものばかりに目がいっちゃって、満ち足りているもののことを忘れちゃうんだってさ。俺さ、それって、すごくわかる気がするんだよな」
「うん……」
「地蔵さん、すごくいいことを言ってくれたんだよ」
「えっ、地蔵さん、なんて?」
「人間ってのは、何かと何かを比べたときに、いつも錯覚を起こすんだって。だから、自分と他人をあまり比べない方がいいって」
夏美は前を向いたまま、静かに月を見詰めていた。
ぼくは勝手にしゃべり続けた。
「他人と比べちゃうとさ、自分に足りないものばかりに目がいっちゃって、満ち足りているもののことを忘れちゃうんだってさ。俺さ、それって、すごくわかる気がするんだよな」
「でも、このトンボたち、みんな冬には死んじゃうんだよね……」
「まあ、そうだよな……」
「生まれてきて、幸せなのかなぁ」
「何が?」
「トンボ」
唐突な夏美の疑問に、ぼくは適当な答えを持ち合わせていなかった。だから、返事が逆に質問になってしまった。
「そもそも、幸せって、なんだ……?」
夏美はトンボの舞い飛ぶ青空を見上げながら、しばらくの間、「なんだろうなぁ」と思案していた。そして、ふいに「はぁ」と明るめのため息をついたと思ったら、ぼくの顔に視線を向けた。
「ん、どした?」とぼく。
「幸せってさ」
「うん……」
「単純にさ」
「うん」
「こういうことかも」
ふいに夏美は、ぼくの手を握った。
そして、ちょっと大きめに手を振りながら歩き出したのだった。
大きく手が振られると、歩幅も自然と大きくなった。夏美の手の温度と、やわらかな感触ーぼくのなかの「気持ち」が、じわじわと弾んでくるのが分かった。
「たしかに、単純なのかもな……」
「まあ、そうだよな……」
「生まれてきて、幸せなのかなぁ」
「何が?」
「トンボ」
唐突な夏美の疑問に、ぼくは適当な答えを持ち合わせていなかった。だから、返事が逆に質問になってしまった。
「そもそも、幸せって、なんだ……?」
夏美はトンボの舞い飛ぶ青空を見上げながら、しばらくの間、「なんだろうなぁ」と思案していた。そして、ふいに「はぁ」と明るめのため息をついたと思ったら、ぼくの顔に視線を向けた。
「ん、どした?」とぼく。
「幸せってさ」
「うん……」
「単純にさ」
「うん」
「こういうことかも」
ふいに夏美は、ぼくの手を握った。
そして、ちょっと大きめに手を振りながら歩き出したのだった。
大きく手が振られると、歩幅も自然と大きくなった。夏美の手の温度と、やわらかな感触ーぼくのなかの「気持ち」が、じわじわと弾んでくるのが分かった。
「たしかに、単純なのかもな……」
ヤスばあちゃんを先頭にして、白亜のビルへと歩き出す。自動ドアを抜けるとすぐに、総合病院独特の臭いが鼻をついた。いろいろな薬品と、病に冒された人々の体臭が入り交じったような臭いだ。
ぼくは夏美の細い背中をそっとさすった。すると、それがスイッチになったように、夏美の両目からしずくがぽろぽろとこぼれ出して、地蔵さんにかけられた真っ白いシーツに染みを作った。
プシュゥー、プシュゥー、プシュゥー。
器械の一定のリズムが、白い部屋のなかに満ちていた。
声を押し殺したヤスばあちゃんの嗚咽だけが、唯一、この部屋でぬくもりをはらんだ音だった。、
器械の一定のリズムが、白い部屋のなかに満ちていた。
声を押し殺したヤスばあちゃんの嗚咽だけが、唯一、この部屋でぬくもりをはらんだ音だった。、
居間に取り残された三人は、しばらく言葉を発しなかった。
コチコチ……と杓子定規に時を刻む柱時計の音が、やけに大きく聞こえた。
「お茶、冷めちゃったね。入れ直そっか」
夏美が最初に口を開いてくれた。
コチコチ……と杓子定規に時を刻む柱時計の音が、やけに大きく聞こえた。
「お茶、冷めちゃったね。入れ直そっか」
夏美が最初に口を開いてくれた。
女性も、ヤスばあちゃんも、しばらくは動かなかった。まるで杭にでもなったかのように、ただ向かい合ったまま立ち尽くしていたのだ。
距離を置いたまま無言で見詰め合うふたりの間を、水色のパジャマを着た松葉杖の青年がゆっくりと通り抜けていった。さらに、小太りの看護婦がせかせかと横切っていったとき、女性の表情がすうっと変化した。どこか意を決したように、口を真一文字にひいたのだ。そして、その場所に立ったまま、深々と腰を折ったのだった。
距離を置いたまま無言で見詰め合うふたりの間を、水色のパジャマを着た松葉杖の青年がゆっくりと通り抜けていった。さらに、小太りの看護婦がせかせかと横切っていったとき、女性の表情がすうっと変化した。どこか意を決したように、口を真一文字にひいたのだ。そして、その場所に立ったまま、深々と腰を折ったのだった。
悪い人は誰もいないのに、誰もが傷を負っているー。
それを思うと、自己犠牲によって美也子さんと息子を救おうとした地蔵さんの離婚の決断すらも、必ずしも百点満点だったとは言えないことになるのではないか。いや、そもそも、完璧な正解など無いのかも知れない。人はきっと、その人生におけるすべての分岐点において、少しでも良さそうな選択肢を選び続けていくしかないのだ。そして、それだけが、唯一の誠実な生き方なのではないだろうか。
それを思うと、自己犠牲によって美也子さんと息子を救おうとした地蔵さんの離婚の決断すらも、必ずしも百点満点だったとは言えないことになるのではないか。いや、そもそも、完璧な正解など無いのかも知れない。人はきっと、その人生におけるすべての分岐点において、少しでも良さそうな選択肢を選び続けていくしかないのだ。そして、それだけが、唯一の誠実な生き方なのではないだろうか。
つい半月前まで、鮮やかな紅や黄色で山里を彩っていた山々は、すでに色彩を失っていた。
足元の草花たちも、みな一斉に枯れてしまった。
春から秋にかけてあれほどまでに謳歌していた無数の生命たちも、冬という季節の圧力に負けて、まとめて地中へと押し込まれてしまったようで、ただでさえ淋しかった山里が、いっそう閑散としてしまった気がした。
足元の草花たちも、みな一斉に枯れてしまった。
春から秋にかけてあれほどまでに謳歌していた無数の生命たちも、冬という季節の圧力に負けて、まとめて地中へと押し込まれてしまったようで、ただでさえ淋しかった山里が、いっそう閑散としてしまった気がした。
冬の夕暮れは無慈悲なまでに早かった。
夕方になったかな、と思ったら、力ない太陽はいきなり浮力を失って、ストンと一気に山の端に落ちてしまうのだ。
いま、淡いすみれ色に染まりつつある東の空には、一番星がチリチリと瞬いていた。今日も間もなく、冷たくてしめやかな冬の闇が、この小さな山里をぱくりと飲み込んでしまうのだ。
夕方になったかな、と思ったら、力ない太陽はいきなり浮力を失って、ストンと一気に山の端に落ちてしまうのだ。
いま、淡いすみれ色に染まりつつある東の空には、一番星がチリチリと瞬いていた。今日も間もなく、冷たくてしめやかな冬の闇が、この小さな山里をぱくりと飲み込んでしまうのだ。
砂利の混じった地面を踏みしめると、喪服に身を包んだ夏美が肩をすくめながら、自分の胸を抱くようにした。
「うわ、やっぱ寒いねぇ」
「うわ、やっぱ寒いねぇ」
少しでも風が吹くと、うなじの毛穴がきゅっと縮まりそうなほど山間(やまあい)の空気は冷え込んでいた。
「地蔵さんと雲月さんはどういう仲だったんですか」
雲月はぼくの質問に答えず、空き缶をポイと投げてくずかごに捨てた。そして、喪服の胸ポケットからたばこを取り出すと、慣れた手つきで一本くわえ、百円ライターで火をつけた。紫煙をゆっくりと吸い込み、そして、遠い山の方に向かって吐き出した。
雲月はぼくの質問に答えず、空き缶をポイと投げてくずかごに捨てた。そして、喪服の胸ポケットからたばこを取り出すと、慣れた手つきで一本くわえ、百円ライターで火をつけた。紫煙をゆっくりと吸い込み、そして、遠い山の方に向かって吐き出した。
冬の川風が吹いた。夏と違って、森の匂いのしない風だった。その代わり、とても豊かな腐葉土の匂いがした。
ヤスばあちゃんと公英さんは、離ればなれだった時間の溝を、血の絆によって確実に埋めていくようだった。そして、たった二日間で、「孫とおばあちゃん」という優しい関係を取り戻していったように見えた。
ひょいっと抜き取ったその封筒に、ある有名出版社のロゴが印刷されているのを見た刹那、ぼくの心臓は二拍か三拍くらいスキップしてしまった。
だらしなく緩みそうになる頬の筋肉を緊張させておくのがひと苦労だった。
「お願い?」
雲月は怪訝そうな目をして、ぼくのつま先から頭までを舐めるように見た。
雲月は怪訝そうな目をして、ぼくのつま先から頭までを舐めるように見た。
冬枯れの森のなかから、土の匂いのする冷たい風が吹いてきた。

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