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この物語の主人公は、私がここしばらく、親しみを込めて「城戸さん」と呼んできた人物である。苗字に「さん」をつけただけなので、親しみも何も、一般的な呼び方だが、私の引っかかりは、すぐに理解してもらえると思う。
城戸さんに会ったのは、とある書店で催されたイヴェントの帰りだった。
私は、二時間半も喋り続けた興奮を少し醒ましてから帰宅したくて、たまたま見つけた一軒のバーに立ち寄った。そのカウンターで、独りで飲んでいたのが城戸さんだった。
マスターと彼との雑談を、私は聞くともなしに聞いていた。そのうち、何かの拍子につい笑ってしまい、話に加わることになった。
彼は自己紹介したが、その名前も経歴も、実はすべて嘘だった。しかし、私には疑う理由がないから、最初はその通りに受け取っていた。
黒縁の四角い眼鏡をかけていて、目を惹くようなハンサムではないが、薄暗いバーのカウンターが似合う、味わい深い面立ちだった。こういう顔に生まれていたなら、中年になって少々皺や白髪が増えてもモテるんじゃないかと思ったが、そう伝えると、彼は怪訝そうに「いえ。全然、……」と首を傾げただけだった。
平野啓一郎さんのある男の書き出し
- 2022/03/03
- 20:24
平野啓一郎さんのある男

この物語の主人公は、私がここしばらく、親しみを込めて「城戸さん」と呼んできた人物である。苗字に「さん」をつけただけなので、親しみも何も、一般的な呼び方だが、私の引っかかりは、すぐに理解してもらえると思う。
城戸さんに会ったのは、とある書店で催されたイヴェントの帰りだった。
私は、二時間半も喋り続けた興奮を少し醒ましてから帰宅したくて、たまたま見つけた一軒のバーに立ち寄った。そのカウンターで、独りで飲んでいたのが城戸さんだった。
マスターと彼との雑談を、私は聞くともなしに聞いていた。そのうち、何かの拍子につい笑ってしまい、話に加わることになった。
彼は自己紹介したが、その名前も経歴も、実はすべて嘘だった。しかし、私には疑う理由がないから、最初はその通りに受け取っていた。
黒縁の四角い眼鏡をかけていて、目を惹くようなハンサムではないが、薄暗いバーのカウンターが似合う、味わい深い面立ちだった。こういう顔に生まれていたなら、中年になって少々皺や白髪が増えてもモテるんじゃないかと思ったが、そう伝えると、彼は怪訝そうに「いえ。全然、……」と首を傾げただけだった。
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