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表現、描写をおすすめ小説から学ぶ 伊坂幸太郎さんのバイバイ、ブラックバードより
- 2020/06/10
- 08:00
伊坂幸太郎さんのバイバイ、ブラックバードより

ざる蕎麦を食べ終えて店の外に出ると、白く細かい綿のようなものが、止めどなく天から落ちてきた。視界を埋めてくるその、ふわふわとしたものが何か、一瞬理解できずに戸惑った。太陽が沈みかけ、空は少し暗くなりはじめていたが、ぼんやりとした明るさは残っていまため、雪が降っていることに現実味を感じられなかったのかもしれない。
恐る恐るといった様子で、顔を出したのは女性だった。二十代の半ばくらいだろうか、茶色の髪を長く伸ばし優雅なパーマがかかっている。睫毛も際立ち、目の周辺にも念入りな化粧がされている。
「中耳炎ですね。鼓膜を切って、膿を出せば痛みも楽になるでしょう」と耳鼻科医が言った。いつもと同様の、ロボットのような無表情さだった。
玄関まで見送りに来てくれた霜月りさ子は、「あの」と声をかけてくれた。「結婚する星野さんにこういうことを言うのもなんですけど、この一年半、楽しかったです。会えて良かったです」
言葉に詰まる。胸にこみ上げてくる思いが、僕の内なる紐を引っ張ろうとする。紐が解けた途端、自分の涙腺が緩み、心の柱がふやけ、その場にぺしゃんこになるのは間違いなかった。
僕もそれに続き、部屋のドアに近づくが、もうここには来ないのだな、と思うと胸の中の、透明の、珠のようなものに罅(ひび)が入る感覚に襲われた。痛みとも痒みとも異なる皹(ひび)が胸にできる。廣瀬あかりの部屋をぐるりと見渡す。この場所に初めて来た時の記憶が蘇ると、目尻が湿るような予感がし、慌てて首を左右に振った。
とにかく僕は冬の休日に、カーペットに膝をつき、脛をつき、正座の体勢で、ほとんど土下座の準備段階という姿だった。夕方の四時過ぎではあるが、日はまだ残っている。
葉をめくり、赤い実を見つけ、もぐ。練乳に苺をつけ、頬張ると、慈愛に満ちた母の優しさを溶かし込んだかのような、甘いミルクの味と、苺の酸味が身体に沁みてくる。これなら、いくらでも食べられる、縦横無尽にハウス内をうろつきまわり、苺を全部、食べつくしてやろう、と廣瀬あかりは高揚した。
苺園の女性は首回りや腰回りに贅肉を携え、ふっくらとした柔らかい印象をもたらす外見だった。発する言葉も穏やかで、のんびりしていた。
年齢も三十前後に違いなく、若者らしさと成熟した大人のちょうど中間あたりの年齢に感じられた。短い髪に、高い鼻、目と耳が大きく整っているとは言いがたいものの、個性はあるわね。廣瀬あかりはそう思った。
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