読書を趣味に ≫ 小説の書き出しを学ぶ
凪良ゆうさんの流浪の月の書き出し
- 2022/06/29
- 20:32

凪良ゆうさんの流浪の月より 休日のファミリーレストランは混んでいる。はしゃぐ子供とそれを叱る親、学生のグループたちの騒々しい笑い声に満ちた店内を、ホールスタッフが忙しなく行き来している。「フレッシュピーチとホイップ生クリームのかき氷です」 少女の前に、華やかにデコレーションされたかき氷が置かれた。「これずっと食べたかったんだ。缶詰じゃなくて本物の桃なんだよね」 目を輝かせる少女の向かいには、一組の...
中山七里さんのさよならドビュッシーの書き出し
- 2022/05/21
- 18:51

中山七里さんのさよならドビュッシーより 銀盤にそっと指を置く。 右足は軽くペダルに乗せる。 深呼吸を一つしてから指を走らせ始める。 低音から始まる序奏。そして和音からしなやかな三度の重音に移った時、早速鬼塚先生の叱責が飛んだ。「はい! そこ、指が転んだ」 言われなくても分かってるわよ、そんなこと あたしは胸の裡で舌打ちする。最初くらい気持ちよく始めさせてくれたっていいじゃない。「指丸めて! ちゃ...
東野圭吾さんのレイクサイドの書き出し
- 2022/05/15
- 10:04

東野圭吾さんのレイクサイドより 汚れた綿のような雲が前方の空に浮かんでいた。雲の隙間には鮮やかな青色が見える。 並木俊介は左手をハンドルから離し、右肩を揉んだ。さらにハンドルを持つ手を替え、左肩を揉む。最後に首を左右に振るとポキポキと音がした。 彼の運転するシーマは、中央自動車道の右側車線を、制限速度よりちょうど二十キロオーバーで走っている。ラジオからはお盆の帰省による渋滞情報が流れていた。例年に...
古内一絵さんのキネマトグラフィカの書き出し
- 2022/05/07
- 09:51

古内一絵さんのキネマトグラフィカより 文庫本から眼を上げると、車窓の向こうに、まだ雪が残る山並みが迫っていた。 北野咲子は、軽く伸びをして窓枠にもたれる。 時間通りの到着になりそうだ。 久々に全員が顔をそろえる同期会に参加するため、咲子は上越新幹線に乗っていた。休日にもかかわらず、昼下がりの自由席はすいていて、車輛の乗客の数はまばらだ。 東京から小一時間、新幹線に乗ってしまえば、群馬県桂田市はさほ...
中山七里さんの死にゆく者の祈りの書き出し
- 2022/04/22
- 20:32

中山七里さんの死にゆく者の祈りより 教誨室(きょうかいしつ)の中はひどく寒々しかった。 四方の白を基調とした壁には何の飾りもなく、天井の照明が無機質な光を放っている。調度と呼べるものは中央に置かれたテーブルと一対の椅子のみという殺風景さだが、壁の一面に設(しつら)えられた棚にある縦横一メートルほどの仏壇と部屋に立ち込めている香が辛うじて仏間らしさを漂わせている。...
小坂流加さんの余命10年の書き出し
- 2022/04/14
- 10:22

小坂流加さんの余命10年より ゆらゆらと街は陽炎(かげろう)で揺れている。 林立するビルの窓は灯台のように明滅している。すれ違う電車の残像が光を引いていく。雑踏の先から路地裏へ駆け回る子どもたちはコンサートの上に点滅する光を踏んでいくように走り去る。騒がしい声とすれ違ったバスから降りた乗客は光に刺されると小走りに建物の下にかろうじて伸びていた墨色の影の下に逃げ込む。自動ドアが開くと、焼けた肌を冷風が癒...
田中経一さんのラストレシピの書き出し
- 2022/04/10
- 20:36

田中経一さんのラストレシピより 二〇一四年(平成二十六年)、四月 華僑の大物ともなると、その葬儀はここまで大袈裟になるのか……。 佐々木充は、そんな感想を持ちながら記帳を済ませた。 今年は、四月に入ってから雨空の日が続いている。この日も、横浜郊外にある斎場にはしとしとと雨が降り注いでいた。 通夜には数千人を数える参列者が押しかけている。供花の名札を見ると、ほぼ半数が中国人や中華レストランからのものだっ...
中井由梨子さんの20歳のソウルの書き出し
- 2022/03/31
- 21:18

中井由梨子さんの20歳のソウルより 満員の千葉マリンスタジアム。 浅野大義がヒロアキとともに応援席に向かうと、サングラスをかけた高橋健一先生が「よお」と片手をあげた。 トロンボーンは最前列。大義はその列の端に愛用の「ロナウド」を構えて立った。「大義先輩と吹けるの、嬉しいです」と、隣の後輩が微笑む。大義も、なんだか夢を見ているようだった。 3年前、高校の教室で思い描いた、応援席。トロンボーンは最前列の...
中山七里さんのヒポクラテスの誓いの書き出し
- 2022/03/20
- 10:08

中山七里さんのヒポクラテスの誓いより「あなた、死体はお好き?」 真琴はそう訊かれて返事に窮した。 十一月の薄日が差し込む法医学教室で、挨拶も交わさないうちの第一問がこれだった。しかも目の前に座る質問者は、紅毛碧眼(こうもうへきがん)でありながら日本語が至極流暢ときている。「あ、失礼。自己紹介まだだったわね。ワタシ法医学教室准教授のキャシー・ペンドルトン」「け、研修医の栂野真琴です」 差し出された手を...
瀬尾まいこさんのそして、バトンは渡されたの書き出し
- 2022/03/12
- 12:08

瀬尾まいこさんのそして、バトンは渡された 何を作ろうか。気持ちのいいからりとした秋の朝。早くから意気込んで台所へ向かったものの、献立が浮かばない。 人生の一大事を控えているんだから、ここはかつ丼かな。いや、勝負をするわけでもないのにおかしいか。じゃあ、案外体力がいるだろうから、スタミナをつけるために餃子。だめだ。大事な日ににんにくのにおいを漂わせるわけにはいかない。オムライスにして卵の上にケチャッ...
平野啓一郎さんのある男の書き出し
- 2022/03/03
- 20:24

平野啓一郎さんのある男 この物語の主人公は、私がここしばらく、親しみを込めて「城戸さん」と呼んできた人物である。苗字に「さん」をつけただけなので、親しみも何も、一般的な呼び方だが、私の引っかかりは、すぐに理解してもらえると思う。 城戸さんに会ったのは、とある書店で催されたイヴェントの帰りだった。 私は、二時間半も喋り続けた興奮を少し醒ましてから帰宅したくて、たまたま見つけた一軒のバーに立ち寄った。...
中山七里さんの護れなかった者たちへの書き出し
- 2022/01/22
- 21:47

中山七里さんの護れなかった者たちへより 壁時計が午後七時を過ぎる頃、ちょうど最後の未決書類が片付いた。三雲忠勝は机の上の書類一切合財を自分用に割り振られたキャビネットに収めると、施錠した上で扉が閉まっていることを確認した。慎重な上にも慎重をーーそれが三雲の流儀だった。「お疲れ様。君はまだ帰らないのか」 フロアに残っている沢見に声を掛けると、沢見はパソコン画面を前に力なく首を振ってみせた。「まだ申請...
東野圭吾さんの沈黙のパレードの書き出し
- 2021/11/20
- 22:17

東野圭吾さんの沈黙のパレード 壁の時計を見ると、あと二十分ほどで午後十時になろうとしていた。今夜はここまでかな、と並木祐太郎は思った。厨房からカウンター越しに店内の様子を窺った。残っているのは、中年女性の二人組だけだった。店に入ってくるなり、久しぶりで懐かしいという意味のことを片方の女性がいっていたから、以前にも来たことがあるのだろう。並木はこっそりと顔を確認した。見たことがあるような気もするが...
名取佐和子さんのペンギン鉄道 なくしもの係の書き出し
- 2021/06/27
- 07:08

名取佐和子さんのペンギン鉄道 なくしもの係より いーち、にー、さーん、しー、ごー、……とゆっくり十まで数えてから、笹生響子は文庫本から目をあげた。「やっぱり、いる」 思わず口に出してつぶやいてしまう。 クーラーがほどよく効いた電車の中は空いており、響子が座った緑色のロングシートにもだいぶ間隔をあけて他に二人しか座っていなかった。高校生の男子はイヤホンをつけて携帯ゲーム機のボタンを連打し、響子と同い年...
柚木麻子さんのあまからカルテットの書き出し
- 2021/06/15
- 22:04

柚木麻子さんのあまからカルテットより 男の人としゃべったのは六年ぶりだ。 咲子は気が付き、目を見張る。いやいや、出会いの少ない仕事とはいえ、異性と接する機会がまったくないとは言えない。例えば、ピアノを習いにくる小学生の中にも男の子はいるし、発表会では保護者も観に来る。そうそう、調律の西門さんとは、教室にしている自宅の居間で、半年に一度、二人きりで過ごしているではないか。 しかし、ここでいう男の人と...